![]() |
|||||||||||||||||||
![]() |
|||||||||||||||||||
|
メールマガジン「瀬戸だより」のバックナンバー集。画像や情報の追加もあります。
◇注意◇ このページ記載の日付・内容などはメールマガジン発行時のものですので、ご注意ください。 |
|||||||||||||||||||
|
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ 071号 「歴史のなぞ?‥‥瀬戸山離散」という話
瀬戸は日本の陶器の産地として古い歴史を持っています。奈良時代には猿投周辺で須恵器が多く生産され、そして施釉された陶器が日本で作られ始めたのもこの土地‥‥。1000年以上にわたって絶えることなく第一線で生産を続けてきた産地というのはなかなか他にはありません。ただ、その瀬戸の歴史の中で瀬戸で陶器が作られなかった空白の時期があります。 室町時代の末期(16世紀後半)、戦乱の続く時代に瀬戸で窯を焼き続けてきた陶工たちが急に瀬戸の土地を捨て、美濃などに移っていきました。そして、瀬戸での陶器の生産は極端に減りました。この陶工たちの移動を「瀬戸山離散」と呼んでいます。 いったいなぜ「瀬戸山離散」は起きたのでしょうか? 17世紀にはいると、瀬戸山離散で瀬戸を離れていた陶工たちが瀬戸にふたたび戻ってきます。「竈屋呼び戻し」といわれる尾張徳川家による瀬戸への陶工の呼び戻しが行なわれています。 「瀬戸山離散」という歴史の出来事は、以前は「しかたなく瀬戸を捨てて出て行かなくてはならなかった」というマイナスのイメージで捉えられていました。実際はいろいろな要素はあるのでしょうが、悲しいというより、陶工たちのたくましさを感じるエピソードになったような気がします。 茶の湯と結びつき、織部・志野・黄瀬戸などの桃山期の銘品の多くを産み出したのは瀬戸ではなく美濃が中心でした。瀬戸で陶器にたずさわるものとしては少し残念で悔しい部分もありますが、実際に美濃で桃山の茶陶の生産を行なっていたのは瀬戸から移った陶工たちが多かったと想像すると、ちょっと誇らしい気分にもなりますね。 2007/10/13 |
||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||
|
◇注意◇ このページ記載の日付・内容などはメールマガジン発行時のものですので、ご注意ください。 |
|||||||||||||||||||
| ご意見・ご感想を お待ちしています。 |
|||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||
| http://web-setomono.com
□ご意見・ご感想はこちらのメールフォームから‥‥ このサイト内の画像・文章等、内容の著作権は特に断りのない場合加藤兆之助商店・加藤修司が所有しています。内容のすべてあるいは一部の無断転用を禁止します。 Copyright2006-2008 KatoChonosukeShoten&Shuji Kato All right reserved. このサイトへのリンクはフリーです。 |
|||||||||||||||||||